2012年2月29日水曜日

日本の官僚 & 中国官僚

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サーチナニュース  2012/02/29(水) 10:04
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0229&f=column_0229_010.shtml

ここが違う日本と中国(14)―官僚支配

  日本は官僚支配の国だとよく言われる。
 しかし、筆者はそうは思わない。

  いうまでもなく、官僚が国を支配しないような国はどこにも存在しないはずだ。
 筆者が大いに着眼しているのは、
 官僚の社会的地位および官僚と比肩する社会階層があるかどうか
という点である。

  あらかじめ結論を先にしておくと、日本には官僚以外に政治家がいて、さらに専門家がいる。
 国の法整備や政策決定において専門家がとても大きな力を発揮していることは周知のとおりである。
 専門家はそれだけではなく、あらゆる分野、領域において支配的な地位にあり、なおかつ膨大な数で安定した社会階層を成している。
 これは決して数で圧倒的に少ない政治家が同等に語られることではない。
 一方、官僚といえば、官―民という対立構図が日本では長い歴史を有し、今も官が上、民が下と認識されている。
 しかし、戦後、民主主義の徹底を通して、官民の上下関係は現実的にほとんど崩れており、官僚が民衆を支配しているような状況にない。

  近年、日本ではむしろ公務員バッシングとも捉えられるようなことが起きている。
 長引く経済の不況に伴い、民間企業はますます激しい競争にされさら、従業員の給料がどんどんカットされていくなか、国民の血税で支えられている公務員も痛みを分かち合わなければならない。
 この理屈は堂々たる正論であり、反対者はほとんどいないだろう。

  しかし、公務員は民間より厚遇されているからといって、その給料をいくら削減してもよい、あるいはその数を大幅に縮小したほうがよいといった論調は警戒すべきだと筆者は思う。
 民間の平均よりやや高い所得水準は公務員制度のなかで決して不必要なことではないし、ある意味では、それが公務員の質の高さや、清廉さに対するご褒美だと考えてもいいのではないか。
 また、公務員数の削減は一方で公共サービスの低下を招きかねないことも常に念頭に置かないといけない。

  筆者が来日後、役所で利用者が窓口の担当職員を大声で怒鳴るような場面に何度も出くわした。
 最初は、怒鳴られても一言も発せず、ただひたすら仕事をこなすその職員の姿を見てほんとうに可哀そうに感じた。
 後に振り返ってみると、なにか落ち度でもあったんだろうか、口答えや弁解しなくてよかったかもしれないと思うようになった。
 なぜそうだったのか、もし役所の職員と利用者(市民)との間で口喧嘩のようなことが起きたら、ほぼ間違いなく新聞沙汰になるからだ。

  公務員が一般市民と喧嘩するなんてけしからんと怒られるかもしれないが、筆者は「官僚天国」たる中国で生まれ育った人間だから、そう感じたことは決して理解できないことではない。

  中国は正真正銘の「官僚天国」で、官僚支配の国である。
 冒頭で言っている着眼点からすると中国では、
 第一に、官僚が最高層の社会的地位にあること、
 第二に、官僚と匹敵する社会階層がまったく存在しないこと
である。

  中国では、いくら金持ちでも、いくら有名な知識人でも、官僚には叶わない。
 食事会での席順について官僚が上席に座ることは常識、イベントや会議などで官僚が最初にスピーチを行うのもお決まりだ。
 社会生活のあらゆる場面で、官僚をもっとも大事にする。
 これは社会主義革命を経た現代中国でも脈々と続いている伝統である。

  官民の峻別がこれほど厳しい国はほかにどこにもないと筆者はいつもそう思っている。
 「官は上、民は下」といった支配と被支配の構図は資本主義の浸透にもかかわらず、びくとも揺れず、むしろいっそう強化されている。
 それはそのはず、資本主義は確かに経済分野で取り入れられているが、政治の民主化が全く進んでいない状況下で、官民関係の根本的な変化は起こりようがない。

  日本では市民が官僚を怒鳴ってもかまわない。
 これは中国になると、絶対ありえないことだし、もしそんなことが起きたら、大変な結果を招く。
 中国ではむしろ官僚が一般庶民を怒鳴ったりするのだ。
 特に役所では正門を厳重に警備する人ですら来訪者に悪い態度で接する。

  ここではついでに官庁役所の日中比較をしてみよう。
 日本では中央官庁を除いて、地方自治体の役所は基本的に塀もなければ、誰でも自由に出入りすることができる。
 しかし、中国では、中央官庁はもちろんすべて高い塀に囲まれて、軍人が入口を警備し、一般の人が自由に出入りできない。
 地方政府でも、省・自治区・直轄市レベルの官庁だけでなく、市レベルも、厳重な警備を敷いて一般人の出入りを許さない。
 日本の地方自治体みたいに、誰でも自由に出入りできるのが県レベル以下の官庁に限られる。

  「人民中国」と銘打っているのに、人民が政府に簡単に近づけないことは如何にも皮肉なことと思える。

  近年、日本と中国で起きている全く逆の流れも非常に興味深い。
 日本では多くの官僚が大学教員になることであって、逆に中国では多くの大学教員が官僚になっていくということだ。

  日本では、公務員制度が徹底されているため、官僚への道は公務員試験合格をスタートとする。
 それ以外の可能性はほぼゼロだ。
 また、政治家になるためには、選挙を避けて通れない。
 いずれも例外はあるが、決して多くはないし、非常に特別な人でないとありえない。
 逆に、大学教員になる資格はそんなに限定されていない。
 一定以上の学歴および相当の研究業績があれば、資格上問題ないはずだ。
 近年、ますます多くの大学が現場経験や他職業・職種のキャリアを有する人を教員として採用するようになったため、例えば、元財務省官僚や元知事が名門大学の教授になったりするとか。
 これはいってみれば、専門家(特に大学教授)の地位が官僚を凌駕していることの証左でもある。

  ところが、こんなことは中国では今まで絶対ありえなかった。
 近年、少し出てきているものの、非常に稀なケースである。
 むしろ、大学教授(または広く学校教員)が官僚になるようなことが非常に一般的である。
 中国では普通、官僚といっているが、大きく分けて、政府官僚と共産党幹部になる。
 もちろん、両者を兼任するのが一般的だ。
 公務員制度は存在するものの、1990年にやっとできたもので、旧来の人間もいるし、制度の運用はそれほど厳格なものでもないし、さらに本当の意味での選挙も実施されていないことなどもあって、官僚になる道は実に多い。
 最大のカギはいうまでもなく、前回のコラムで触れた「コネ」である。
 政府や共産党の責任者との間に太いパイプがあれば、学校の教員でもいきなり官僚になれるのだ。

  筆者の同級生の中にも、似たようなケースが多くあった。
 大学時代の同じクラスの同級生は延べ98人、卒業時、政府機関に就職したのがそれほど多くはなかったが、後に、様々なルートを通じて政府機関に入り官僚になった者は続出、いまやほぼ全体の7割にも達した。
 副省長が2人(共に共産党中央委員会候補委員)、共産党中央委員会に1人、ほかに市長、県長、県共産党書記、庁クラス、局クラスも多数いる。

  民間から政府へ異動することが中国では栄転にあたり、まさに人生の大逆転とまでいう人もいる。
 権力に対する制約が少ない中国では、官僚になったこと自体は権力を手に入れたと同時に、より多くの資源を動かすことができることを意味する。
 その資源はヒト、カネ、情報、ネットワーク、社会関係などなど、あらゆる可能性を秘めている。
 また、そういった資源は自分のためだけでなく、親族や友人、上司、部下にも使える。
 一言でいえば、小さな資源を使うことによって、さらに大きな資源をゲットするということだ。
 中国ではなぜ大金を投じてまでも官僚のポストを手に入れたいのか、秘密はまさにここにある。
 したがって、「買官売官(ポストの売買)」は日常茶飯事に行われている。

  そんな官僚はすべてを牛耳っており、社会生活の中でいつも支配的な存在である。

  ここではこんな比較もしてみよう。

  中国人は多弁で自己主張が強い、といったイメージが日本人にはある。
 これがすべての中国人に当てはまるわけではないとしても、多弁な人は実に多い。
 特に会食の席上はみんな自分の弁才を思う存分発揮する場となる。
 そんななか、長年日本で暮らしている筆者は時々不快感を覚えることがある。

  例えば、日本が話題になると、筆者が日本から帰ってきた人と知っていながらも、唾を飛ばしながら延々と語る人がいる。
 よくぞ日本のことを知っていると思いきや、その内容は根も葉もないようなことばかりで、論点や筋も実に幼稚で聞くに値しない。
 おかしなことに、日本生活の豊富な筆者に事実を確認したり、意見を求めたりすることはめったにない。
 しかも、このような人はほとんど百パーセント官僚である。
 官僚の喋っていることだから、かりに間違っても訂正する人があまりいない。
 その傍惹無人な振る舞いは筆者が我慢できない時も多々あったが、かなり慣れてきているので、その際、一番のコツは相手にしないことだ。

  日本は完全に対照的である。
 会食はもちろんだが、ほかの場でも、もし関連分野の専門家がいれば、必ずその専門家に情報を提供してもらったり、意見を求めたりする。
 ほかの人は絶対勝手に話さない。
 多弁があまり好きでないという国民性もあるが、間違いを恐れて、自分の未熟さを晒し出したくないため、慎重に対応するといった側面が大きいではないだろうか。

  日本は専門家支配の国だというのもここに理由がある。
 だからこそ、日本では資格制度が非常に発達している。
 日本人はいい加減なことを極度に嫌い、どんなことでも基準を設け、マニュアルを作り、その道のプロに任せる。
 各分野のプロというのは、専門家(エキスパート)である。
 また、その人がプロ、専門家であるかどうかについては、ほとんどの場合、「資格」をもって測るのだ。
 ここで言っている「資格」とはライセンスのことであって、一定の共通基準をクリアして初めて権威のある機関または団体から与えられたものである。
 この「資格」があって初めてこの道の仕事をやる資格を得たとも解釈される。

  そんな資格は一体どのくらいあるのか、調べたことがないから答えられない。
 「資格の王道」というウェブサイトで検索してみたら、独立ができる資格、情報処理の資格、事務系の資格、運転系の資格、公務員系の資格、福祉の資格、医療・看護系の資格、コンサルタント系資格、地球を守る資格、国際系資格、ガテン系の資格、充実系資格、資源・工業系資格、無線の資格、ちょっと変わった資格のように、大きく分けられる。
 そういった分野はそれぞれ国家資格、公的資格、民間資格が設けられている。

  どれを取ろうとしても、相当の勉強が課せられる。だから、資格制度の発達は、専門家支配や、勉強好きといったことを裏付けているともいえる。

  一方の中国だが、資格制度はいまだに途上の段階にあり、国民の間でも資格を積極的に取ろうとするような動きはほとんどない。
 いつか日本のような資格社会になったら、はじめて官民の力関係が大きく変わり、より公平・公正な世の中が実現できるといえるかもしれない。

(執筆者:王文亮 金城学院大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)




サーチナニュース 2012/03/01(木) 08:25
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0301&f=column_0301_005.shtml

ここが違う日本と中国(15)―地方自治と中央集権

  最近のテレビでは、米軍基地移転問題や東日本大震災の復興とがれき処理問題で政府首脳(総理大臣と担当閣僚)が各関係方面に頭を下げるシーンが連日のように映し出されている。

  その各関係方面のなかには、いうまでもなく都道府県と市町村など地方公共団体(自治体)の首長が含まれる。

  その場面から「なぜだろう」と思わせるような不可解なことが少なくない。
 例えば、いずれも日本の安全保障、国民の生命財産に直結するほど極めて重要な事案なのに、なぜお互いに協力し合えないのか。
 日本の中央政府と総理大臣はどうしてこんな弱い存在になってしまったのか。
 中央政府と対抗できる地方自治体の力はどこに源泉があるのか。

  これらを正しく理解、説明するには、政治学の知識が欠かせない。
 筆者 はこの分野の素養がほとんどないので、ここでは正解を示すよりも、中国との比較を少ししてみたいと思う。

  ずばり結論から言おう。中国では中央政府が地方政府に頭を下げることは全くあり得ない。

  中国の地方行政は4層に分かれ、
 (1)省・自治区・直轄市、
 (2)市、
 (3)県・県級市、
 (4)郷・鎮
がある。

 いずれも地方政府と呼ばれ、日本のように「地方公共団体」「地方自治体」といった名称を使わない。
 「○○自治区」という第一級地方行政もあるが、少数民族が比較的集中的に居住している地域で、そのトップである共産党委員会書記はすべて漢民族出身の人が担っている。
 少数民族出身の人がナンバーツー以下の任にあたる。

  現在、チベット自治区の書記は陳全国、政府主席は白瑪赤林(チベット族)、新疆ウイグル自治区の書記は張春賢、政府主席は努爾•白克力(ウイグル族)、内モンゴル自治区の書記は胡春華、政府主席は巴特爾(モンゴル族)、寧夏回族自治区の書記は張毅、政府主席は王正偉(回族)、広西チワン族自治区の書記は郭声〓1、政府主席は馬〓2(チワン族)になっている。書記はトップ、主席はナンバーツーなので、「自治区」と言いながらも、事実上、漢民族が支配していると考えても差し支えない。(〓1は王に昆。〓2は風に炎)

  そして中央政府と地方政府は日本のような対等の立場ではなくて、支配と従属の関係にある。
 5つの自治区も、中央政府に従わなければならない。
 自治区の書記は共産党中央委員会が任命するものだから、本質的にほかの省・直轄市となんの変わりもない。

  支配と従属の関係にあるため、中央政府が地方政府に対して「依頼する」「お願いする」必要はまったくない。
 逆に、地方政府が中央政府に懸命に頭を下げなければならない。
 共産党総書記や首相はもちろんだが、中央の大臣級ないし局長クラスの幹部でも地方行脚する場合、その地域の政府は何から何まで至れり尽くせりの歓迎ぶりで、豪華な接待を行うのだ。

  中国では「官大一級圧死人」という諺がある。
 官僚の間では階級が一つでも上になると、下の者にとっては絶対的だ、という意味である。
 政界では上下関係は非常に厳しく、権力の大小強弱は階級差によって峻別される。
 これはいうまでもなく、行政の長を含め政府と共産党の幹部は任命制であって選挙ではないことに由来する。

  こんな中国で生まれ育った筆者は正直言って、中央の首相や大臣が地方政府の首長に頭を下げることに対して、長年日本で暮らしてきたとはいえ、少々違和感を覚えずにはいられない時もある。
 いくら地方自治といっても、問題解決のためにわざわざやってきた中央政府の者の前で何でもかんでも対等だ、平等だというような振る舞いをせずに、温かい気持ちを示すことは些かもやり過ぎではないような気がする。
 もちろん、意見が対立し、解決の糸口がなかなか見つからないような時に中央政府の関係者が地域を訪問する場合が多い。
 怒っている自治体の首長に対して「少し優しく接してあげよう」と求めること自体が酷であるかもしれない。

  自治体の首長はすべて選挙で選ばれた者だから、選挙民および地域住民の利益を最大限に守る義務があって、中央政府に対してぺこぺこする必要はない。
 これは中国の官僚制と最も大きな違いの一つといえよう。
 自治になっているかどうか、首長の選び方がその本質を決める。

  地方分権の流れは今、先進国の中でますます顕著になっている。
 日本でも中央集権のあり方が問われ、地方分権の推進が行われている。
 その底流には、
 「中央集権が悪い」
 「地方分権が素晴らしい」
といった価値観や認識があるのではないかと思われる。

  一方の中国は中央集権か、それとも地方分権か、その見分けは意外と難しい。
 というのは、集権か分権か、政治、軍事、外交、経済、貿易、社会政策など、多分野に絡んでいることだけに、それぞれ分けてみないとよく分からない。

  中国は昔から中央集権の国といったイメージがずいぶんと強い。
 封建時代の諸侯割拠や、郡県制などはさておいて、共産党が全国政権を握ってから状況はどうだといえば、計画経済時代と市場経済時代とに分けて見る必要があるだろう。
 前者では、政治、経済、外交、軍事などほとんどすべての分野において徹底的な中央集権体制が敷かれていた。
 しかし、1980年代以降の改革開放、特に市場経済体制への移行にともない、中央と地方の権力構造にも微妙な変化が起きている。

  現在の中国は、政治、軍事、外交といった分野において中央集権国である。
 政治では選挙がなく、上級政府からの任命で各下級政府の首長を決めるわけだから、最も典型的かつ強力な中央集権といえる。

  一方、経済、貿易、社会政策などとなると、中国はむしろ地方分権の要素が非常に強い。
 経済では徹底的な自己責任を貫いて、儲かっても損してもすべて自分のこととなる。
 地方政府は中央政府の基本方針を大きく曲げないかぎり、独自の経済政策を自由に打ち出してよい。
 また、自由主義原理の下で地方の経済運営を行えばよい。

  しかし、中国は社会主義の政治体制を維持している以上、地方分権は共産党一党支配の弱体化につながりかねないという点も見逃してはならない。

  地方分権か、それとも中央集権か、日本と中国の状況だけ見ても、決して「悪い」や「素晴らしい」といった単純な判断で済ませる問題ではなく、どれも一長一短があることがわかる。

  日本を深刻に悩ましている米軍基地移転の問題および東日本大震災の復興とがれき処理の問題はなぜ進まないのか、筆者に言わせてみれば、地方分権の行き過ぎと中央集権の弱体化が元凶である。

  国の安全保障や大規模な自然災害への対応などはいずれも国・中央政府の強力なリーダーシップが要求され、地方自治体に任せっぱなしではいけないことである。
 しかし、今の日本は中央政府がリーダーシップを発揮できる状態ではない。
 中央政府にはそれなりの権限もなければ、財源もない。
 これは決して民主党政権が軟弱だというレベルの問題ではなく、どの政党が政権の座に就いても、基本的に変わらない。

  日本は戦後何十年間、米軍基地を沖縄県に置いてきた。
 もし沖縄県の負担が限界に来ていることに共通認識を持っており、また、日米安保体制を引き続き維持するというのであれば、米軍基地を県外へ移転することは至極当然の理ではないだろうか。
 この場合、最も重要な課題はどの地域が新たな受け皿になるかである。
 しかし、これまでの経緯を見ると、打診しても拒否されるばかり。
 極めて理解しがたいことである。

  米軍基地が嫌なんだという国民的ムードのなかでは、いくら好条件を示しても、受け入れを躊躇するのが火を見るよりも明らかだ。
 選択肢が複数あれば、自分にとって最も都合のよいほうを選ぶ、ということになる。

  では、どうすればいいのか。
 受け入れるところがないようだったら、中央政府主導で、基地を置く条件の整っている都道府県をリストアップして、抽選で決めればよい。
 10年ごとや20年ごとに順繰りにまわしていく。
 日本人は抽選で決めることが大好きだから、抽選であたったら誰も文句ないだろう。

  冗談めいた話はやめとこう。
 今の中央政府はこんなことすらできないなんて誠に情けない。

  そして東日本大震災後の対応においても、苛立ちや無力感を感じる人は少なくない。
 復興に必要な財源が確保できないこと、がれき処理に地方自治体から協力を得られないことは象徴的である。
 すべてが日本の中央集権の脆さを完全に露呈させているわけだと批判されても仕方ない。

  東日本大震災で発生した岩手、宮城両県のがれきの一部を全国で受け入れる政府の方針に対し、29道県が
 「具体的に検討している自治体がない」
と「朝日新聞」の調査に回答した。
 知事が前向きな姿勢を表明しているのは9都府県にとどまる。
 震災1年が近づいてもがれき処理への理解は進んでおらず、2014年3月末までの処理完了の政府目標が遅れる可能性がある(「朝日新聞」2012年2月24日付)。

  震災復興の第一歩はがれき処理だ。
 処理が遅れれば街づくりも遅れ、住民の日常生活回復に多大な支障をもたらす。

  続いて2月26日、汚染土壌の中間貯蔵施設を巡る双葉郡8町村長と国との意見交換会は3町長の突然の欠席によって中止となった。
 欠席に対して、ほかの町長らは「双葉郡全体の大事な話し合いだったのだから、欠席というのはわがまま」「こういうことは異例で記憶にない」と不快感を露わにした(「毎日新聞」2012年2月27日付)。

  「国への不信感」は欠席の理由として釈明されたが、こんな大事な時期だけに、地方自治体と中央政府との間でなかなか歩調を合わせられない事態も日本の民主主義にとって危機的な状況ではないだろうか。

  中国もさる2008年に四川大地震を経験したばかり。
 地震発生直後の対応および震災復興はさまざまな問題を抱えているとはいえ、日本よりはるかスピーディな進行は何より強力な中央集権のメリットを表している。

  救済物資の調達、仮設住宅に必要な土地の供給、復興事業に欠かせない資金確保、地域の再建計画など、いずれも中央政府が強いリーダーシップを発揮してはじめてできることである。
 なかで特に印象深いのが、他の省・自治区・直轄市は中央政府指定の被災地に対して責任をもって経済支援を行うということだ。
 この特別措置のお陰で被災地はそれぞれ迅速かつ莫大な資金援助を受けていち早く復興に向けることができた。

  中国政府は極めて強い権限を持つばかりでなく、誰もが羨むほど豊かな財源を握っている。
 大震災やリーマンショックへの対応において日本と比べ歴然たる差が出たのは、まさに強力な中央集権があるからだ。

(執筆者:王文亮 金城学院大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)




サーチナニュース 2012/03/05(月) 10:15
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0305&f=column_0305_006.shtml

ここが違う日本と中国(16)―『大』と『小』

  日本と中国は「一衣帯水」の隣国として千年以上にわたり交流を続けてきた。
 一方、両者の交流は必ずしもバランスの取れたものではなく、日本による中国のもの(文化や歴史など)の紹介と吸収が圧倒的に多い。

  1980年代以降、中国も日本のことを積極的に紹介し、特に工業製品を大量に取り入れるようになった。
 それにしても、アンバランスの状態が根本的に改善されたとはいえない。

  日本での中国紹介は実に多様多彩で、なかで筆者が非常に興味を持ったのは「大中国展」である。
 最初にそれを見たとき、なぜ「中国展」の前に「大」を付けたのかとても不思議に思った。

  それをある知り合いに聞いたら、中国は非常に大きい国だし、物産も溢れるほど多いから、「大」を付けると、より宣伝効果が期待でき、集客力アップにつながる。
 なるほど、なかなか説得力のある説明だ。

  そんな大国中国に対してコンプレックスを抱いている日本人は少なくない。
 「日本は小さい国だから」とよく聞かれるのも、これと関係する。
 一方、大国中国のことに興味を感じ、それが好きな人もかなり多いようだ。

  ところで、「大」があれば、「小」もあるはず。
 「大中国」といったら、「小日本」ともいえるのか。
 前者は賛辞であることは間違いないが、後者は明らかに軽蔑の表現にあたる。
 また、「大日本」というと、かつての「大日本帝国」を連想させてしまいかねない。
 言葉の使い分けは実に難しい。

  中国という国はまるで「世界一」の代名詞である。
 多くの「世界一」は中国にある。
 過去も、現在も、中国や中国人は「世界一」を目指したがる。
 世界一巨大な国を造り上げるのも中国人の夢である。

  近年、中国の連邦制構想は一部日本人の学者や評論家の間で盛んに議論されており、その見解は普通の人びとにも広く支持されている。
 中国は国として大きすぎて、まとめるのが大変だから、アメリカやロシアみたいに連邦制にしてはよいではないかという。

  確かに連邦制は一つの考え方としてありうるが、中国には絶対通用しないと筆者は断言したい。
 それは現政権にとって許しがたいものだけでなく、圧倒的多数の国民からにしてもまったく考えられないことだ。

  現在、中国の第一級地方行政は31の省・自治区・直轄市、それに2つの特別行政区(香港とマカオ)に分かれている。
 人口はその10分の1弱、国土はその25分の1強相当の日本は、47もの都道府県の地方自治体をもっている。
 一つの省の人口は1億人にものぼるという状況をみると、中国はなぜ第一級地方行政をもっと小さく分けないのかという疑問を抱いても別に不思議ではない。

  日本の市町村は基礎自治体と位置づけられ、独自の行政権と立法権を持つ。
 なのに、中国から見た日本の市町村はごく一部を除いて極めて小さい規模しか有しない。
 甚だ多い人口数千人程度の町村は中国のどの行政に相当するかは時々翻訳・通訳の現場で戸惑いを招く。
 ある日、テレビ番組で日本の町を中国の「郷・鎮」に訳されたのを見て、思わず「大間違いだ」と声を上げた。
 日本の町は決して中国に郷・鎮に当たらず、市か県に相当、少なくとも県に訳されるべきだろう。

  今、日本のほとんどの都道府県と市町村が中国の地方政府と姉妹(友好)関係を結んでいる。
 規模の違いは動かない現実だが、時にはちょっとした不都合も生じる。
 筆者が九州で暮らしていたとき、大学所在の地元訪中団に加わって中国に行ったことがある。
 定期的に行う相互表敬訪問のためだった。
 日本側の人口5万人強の市に対して、中国側の市は105万もの人口を擁する。
 双方のトップはいずれも市長だが、いろいろなところに力の差があると思われる。
 非常に印象に残ったのは、中国側の市長は物事についてはっきり意見を述べていたのに対して、日本側の市長は抽象的、一般的なことしか言えなかった。
 もちろん、これはただ単に行政区画の規模による違いではなく、異なった政治体制などのほうも大きく影響している。

  「大なること」を好むのは、なにも政治や行政に限ったことではない。
 われわれは日常生活の中でも、そういった国民性を垣間見ることができる。





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