2012年2月21日火曜日

底上げ教育の日本 vs 英才教育の中国

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サーチナニュース  2012/02/20(月) 09:53
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0220&f=column_0220_005.shtml

ここが違う日本と中国(11)―
 底上げ教育 vs 英才教育


  近年、日本の教育現場やマスコミではPISAという言葉が頻繁に登場している。

  PISAは「生徒の学習到達度調査」の頭文字
 経済協力開発機構(OECD)が15歳児を対象とし2000年から3年ごとに実施している、義務教育で学んだ知識や技能を実生活で活用する力を評価するテストである。

  2009年の調査は65カ国と地域の約47万人を対象にした。
 その結果は2010年12月に発表された。
 今回の結果によると、中国の上海は読解力が556点、数学的応用力が600点、科学的応用力は575点、全分野で1位になった。
 一方、日本は520点(8位)、529点(9位)、539点(5位)だった。
 OECD加盟国の平均は493点、496点、501点なので、上海の優位が目立つ。

  中国は今回初参加で上海だけが参加地域となった。
 つまり、初参加の上海は、世界を驚かすような好成績を収めたのだ。
 そんな上海の順位は日本からも大きく注目され、テレビでは一時話題になり、教育現場と教育行政のなかで上海詣の動きがあり今後活発化すると見られる。

  関連報道を見て、筆者もいろいろ考えてみたが、ここではいくつかの感想を述べてみたい。

  上海は全分野を通して成績上位の生徒が多いだけでなく、下位が最も少なく、上位と下位の差が小さいのが特徴だという。

  これを見て、思わずオリンピックを連想してしまった。

  中国はオリンピックを国威発揚の最大のチャンスと捉え、どんどん力を入れてきた。
 その結果、オリンピックのメダル数が1980年代以降急速に伸び、特に2008年北京五輪の成績は圧倒的強さを誇る。
 それはそのはずだ。

  出場選手はすべて厳しい条件で選び抜かれたスポーツのプロ、エリート中のエリートである。

  中国のナショナルチームは全員幼い頃からスポーツ一筋の人。
 各級政府の作っているチームから這い上がり最終的にナショナルチームの一員として選ばれ、そしてさらに厳格な選抜を勝ち抜いて出場選手になる。

  日本みたいに大学や会社・企業に所属しながら訓練・トレーニングするのではなく、毎日ひたすら特訓に打ち込む、そんな者ばかり、だから強くなるのは当然だと思う。
 賞金も半端ではない。
 日本の金メダル300万円、銀メダル200万円、銅メダル100万円とはケタが違う。

  ここまで書くと、話が本線からずれているように見えるが、そうではない。
 筆者が言いたいのが、「国際」的なイベントへの対応において中国は基本的に「国家の威信」「政府のメンツ」を強く意識して最大級の資源を投入するということである。
 OECD実施の学力テストでも、中国からみれば国際的なイベントに該当するはずだ。
 だから、当然、最先端の上海の最高水準の学校のもっとも賢い生徒に参加させるのだ。
 極めて分かりやすいことではないだろうか。

  中国は国威発揚のためにオリンピックに莫大な予算を費やしている。
 日本はもし同じようなことをすれば、メダルはもっとたくさん取れるに違いない。
 しかし、オリンピックのメダル数は中国全体のスポーツ水準を正確に反映しているといえるのか、はなはだ疑問だ。
 逆に、メダル数の不調は日本全体のスポーツ水準の低下を意味するのか、必ずしもそうではない。

  PISAへの参加も中国にとってオリンピックなどの国際試合参加と同じことだ。
 そこに参加した学校は上海の名門学校ばかりである。
 そういう政府が選んだ学校および生徒だから、強くないはずがない。
 でも、PISAの順位ははたして上海市全体、あるいは中国全体の教育水準を代表することができるか、
 答えはノーである。

  上海の順位は日本にも強い衝撃を与えているようだ。
 これまで中国は英才教育をやっている国だといった漠然としたイメージが日本人には持っているものの、いきなりナンバーワンの成績を出せるとは誰も予想できなかっただろう。

  それを受けて日本にも、
 「中国の教育は素晴らしい」
 「日本は中国に学ぶべきだ」
と言い、中国式の英才教育を日本にも導入しようと考える人が増えている。

  しかし、筆者に言わせれば、そのような愚行をぜひやめてほしい。
 なぜなら、英才教育は間違いなく日本を滅ぼすからだ。
 以下では主な理由を述べよう。

(1)中国はもともと階級社会なので、英才教育が適している
  しかし、日本は平等を重んずる国だから、底上げ教育はベストである。

  中国はもともと英才教育を貫いてきた歴史があり、英才教育は決して現在始まったものではない。

  前近代教育において、塾や家庭教師が教育の担い手で、塾に通える人や家庭教師を雇える人は裕福層や金持ちの子どもだった。
 それができる人々はいわゆる社会のエリートに属する。
 そのため、中国の識字率がずっと低く、人びとの大多数は字の読み書きのできない者(中国語は「文盲」)である。

  現在の中国でも、字の読み書きがままならない国民が多くいることは周知のとおりである。
 2000年第5回全国人口調査(国勢調査)の結果によれば、非識字者は8507万人、非識字率は6.12%である。
 特に教育環境が厳しい農村部と内陸部の非識字率が都市部を大きく上回っている(王文亮著『格差で読み解く現代中国』ミネルヴァ書房2006年、275頁)。

  識字率と国民1人あたりの所得の間には、とても密接な関係があることが、国連児童基金(UNICEF)の以下のデータを見るとわかる。

・識字率が55%未満の国では、国民1人あたりの所得が平均600ドル
・識字率が55~84%の国では、国民1人あたりの所得が平均2400ドル
・識字率が85~95%の国では、国民1人あたりの所得が平均3700ドル
・識字率が96%以上の国では、国民1人あたりの所得が平均1万2600ドル
(眞淳平著『世界の国 1位と最下位 国際情勢の基礎を知ろう』岩波ジュニア新書、岩波書店2010年、206~207頁)

  中国は今後も経済が発展し続け、国民の識字率も上がると見られる。
 一方、ほとんど学校教育を受けなかった高齢の人びと、学校教育の年数が短くすでに学校教育から離脱した人びと、そういった人びとの非識字問題を解決することはかなり難しい。

  「悪魔の文字」と呼ばれる漢字。
 その難しさ(画数の多さ、構造の複雑化、多義性など)に加えて、文語と口語の分離によって生活に役立てるまで相当長い年数の教育を受けなければならない。
 だから、経済力のない一般家庭は無理である。

  特に隋唐時代以降、科挙制度の確立に伴い
 エリートと非エリート(庶民)との階層社会の形成は一層激しく、教育はますます英才教育に傾いていった。

  近代に入り「白話運動」の推進および新中国建国後の簡略化漢字の使用により、国民の識字率も急速に向上した。
 それにしても、書籍や新聞などが100%近く漢字を使っているような社会では、本や新聞などを難なく読み、必要な書類を作成したりするためには少なくとも3000字以上の習得が必要といわれる。
 言い換えれば、
 中国では、高等学校まで行かないと、新聞も読めない、手紙も書けない
ということだ。

  日本の選挙は、候補者名や政党名を書くこと、正確に書かないといけないことになっている。
 これは世界中を見渡しても稀ですごいことである。
 中国はまだ民主主義を実現しておらず本格的な選挙が存在しないが、もし選挙をやる場合、日本と同じようなことは絶対できない。
 というのは、70代以上の人、特に農村地域には今も多くの非識字者がいるからだ。

  日本は中国の漢字を受け入れ漢字文化圏の一員になったとはいえ、独自の仮名を発明したお陰で、漢字の習得が生活に役立てるレベルまでの所要年数はずいぶん短縮できた。
 中国とは対照的に、日本ではかなり昔から一般庶民、江戸時代では町民も広く教育を受けられるようになった。
 特に日本は科挙制度を輸入しなかったことが大きい。
 結果的に、教育はエリートの独占状態を免れて、一般庶民にも広く浸透していった。
 現在のいわゆる底上げ教育は実は長い伝統を持っている
ことであるといえる。

  底上げ教育か、それとも英才教育か。
 こうしたそれぞれの国の風土や伝統を無視して語ることができない。

(2)英才教育は「国を治める」手段に過ぎず、
  国を発展させるためには底上げ教育が欠かせない。


  国の発展に役立つのは底上げ教育であって、英才教育ではない。

  日本の明治維新以降の近代化、1950年代以後の高度経済成長は、いずれも底上げ教育のお陰だ。
 特に戦後短期間で戦災の廃墟から這い上がれた最大の要因は、国民の教育水準の高さにあった。
 近年、
 「今の日本は強いリーダーが必要だ」
 「日本には優秀な人材が少ないから経済が衰退していく」
 「だから日本も英才教育を実施すべきだ」
といった声があちらこちらから聞こえてくる。
 ところが、よく考えてみると、強いリーダーだとか、優秀な人材だとか、そもそも底上げ教育とは矛盾しないことである。
 強いリーダーは学校から生まれてくるものではなくて、社会システムや政治体制のあり方と密接な関係がある。
 優秀な人材も決して英才教育をやれば育てられるようことではない。
 た、どんな人が優秀な人材と見なされるかは、判断基準によるところが大きい。

  中国では今、多くの分野において英才教育を受け、海外の名門大学を出た人が要職を占めリーダーになっている。
 アメリカのハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学、イギリスのオクスフォード大学、ケンブリッジ大学などを卒業したエリートたちは官僚として登用され、大臣級ポストに就いた者も少なくない。
 彼ら(彼女たち)は優秀だけでなく若い。
 中国のリーダーは急速に若返りしており、年齢がわずか40代の大臣級官僚、市長や県長はごく普通になっている。

  しかし、中国ではエリートが宙に浮いているような状態になりがちだ。
 なぜかというと、リーダーだけがエリートだけれど、チームを構成するメンバーの間のばらつきが大きく、リーダーについていけなかったりする。
 これは、国を治める(統治する)ことができるかもしれないが、国を発展させるような体制ではないことが明らかである。

  ピラミッドに例えてみると、底上げ教育の日本は裾野の広くどっしりしたピラミッドである。
 一方、英才教育の中国は裾野の狭く細長いピラミッドである。いずれもエリートが君臨しているというならば、中国のエリートは宙に浮いており、能力が発揮しづらい状態にある。

  また、会社や企業で働く人員構成を比較してみよう。
 日本と中国において、経営のトップ、管理層、研究開発は大抵同じく大卒以上の人が中心である。
 しかし、作業現場に目を転じると大きな違いが存在する。
 日本は絶対多数の大卒と一部の高卒からなるが、中国は少数の大卒・高卒と絶対多数の中卒・小卒によって構成されている。
 うまくいきそうなのがどっちか、軍配が日本のほうにあがる。
 国全体のことも同様だといえる。

  いまの中国は大きく発展しているのではないか。
 確かにそうだ。しかし、中国の発展は英才教育の成果ではない。
 大量の資本投入やインフラ整備の重点化に比べ、教育の寄与度が大変低いと見られる。

  底上げ教育の日本は飛び級をほとんど認めないが、英才教育の中国では飛び級制度が広く設けられており、10代前半の大学生や20歳の博士を輩出している。
 いうまでもないが、英才教育を受け、幼い頃に頭角を現わした人は必ずしも大人になっても活躍できる人材とは限らない。

  日本は中国みたいに多くの国民を教育から切り捨てて、力をもっぱらエリート養成に向けることは決して目下の難局を切り抜け、いい将来を保障できるものではない。

(3)英才教育は子どもをだめにする道具であって、
  底上げ教育こそが人間性の育成に役立つ。


  上述のPISA調査結果によれば、上海は週当たりの学校の学習時間が長く、国語は256分(日本211分)、数学は274分(同235分)、理科は202分(同148分)だった。
 子どもの学習習慣に関しては学習時間が長ければ長いほどいいと思ったら大間違い。
 上海の関係者自身も、
 「教員がつい長時間指導してしまい、生徒自身で考える時間がまだ少ない。
 生徒の負担が重く、プレッシャーも大きいので改善が必要だ」
と認めている(「西日本新聞」2011年6月14日付)。

  1日は24時間、誰でも同じことだ。
 時間を学習に多く割けば、ほかのことをやる時間が比例に減る。
 一日の時間配分は子どもの一日の過ごし方を決めてしまうから、決して軽視できることではない。
 中国の子どもは学習に追われて、体育、部活、遊び、睡眠の時間、一息をつく時間が少ない。

  2008年1月6日に放映されたNHKスペシャル「5年1組 小皇帝の涙」という番組は雲南省の子どもたちの様子をリアルに紹介している。
 1年生から英語を学び、数学は世界で一番難しいといわれるほどの学習レベル。
 親は子供を叱咤激励し、愛の鞭も惜しまない。
 学校側も成績のいい子供を多く輩出すれば、評価が上がるため、教育に力を入れる。

  内陸部の雲南省から沿海部の上海市まで、中国はまさに英才教育の極限状態に挑戦しているように思える。
 しかし、その先には、子どもが犠牲になることが待ち受けているに違いない。

  子どもは負担が重く、遊びと睡眠の時間が足りないといったことは中国の教育が長年抱えている問題で、有識者に指摘されて久しい。
 しかし、改善する気配が一向にない。

  中国(上海)は確かに学習の成績が日本より上位だが、子どもの成長を全般的に見て果たして日本が中国に負けているといえるのか、絶対違うと思う。
 いや、むしろ日本が勝っている。
 日本の子どもは体育、部活、遊び、睡眠など学習以外にも多くの時間を過ごしており、中国の子どもより豊かで多彩な日々を送っている。

  大学の授業で「5年1組 小皇帝の涙」を見たある学生はこう述べた。

  「VTRを見て、とても心が苦しくなりました。
 私が小学生の時は、“子どもは遊ぶのが仕事”という考え方を親が持っていたので、そういう悪い点を(テストで)とるか、宿題をやっていない時以外は“勉強しなさい”とは言われませんでした。
 そのお陰でたくさんの楽しかった思い出を持つことができました。
 中国の子どもたちはこの思い出を持つことができないと思います。
 それどころか親など周りのプレッシャーにつぶされながらただ勉強をするしかないという現状が苦しい記憶しか持つことができない」。

  学習という営みは子どもや若い時にしかやらないことではなく、むしろ一生涯のことである。
 特に頭と身体の成長期にある義務教育段階において、感性を磨き、人間性を育てることは極めて重要である。
 そういう意味で、スポーツ、遊び、部活にも打ち込んでいる日本の子どもはよほど健全だといえる。

  底上げ教育と英才教育はどれも一長一短があるというなら、両者を合体すればいいじゃないか。
 しかし、こんなうまいことがあるはずはない。
 国の教育方針は、教育資源の配分を決めることになるから、底上げ教育か英才教育かのどちらかである。

 日本は世界で戦える国を仕上げるためには、国民全員の力を必要とする。
 ならば、底上げ教育しかない。

 (執筆者:王文亮 金城学院大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)

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サーチナニュース 2012/02/22(水) 08:15
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0222&f=column_0222_005.shtml

ここが違う日本と中国(12)―
 底上げ教育VS英才教育(続編)

  前回のコラム(11)で、教育のあり方における日本と中国の違いを書いたところ、大きな反響を呼んでさまざまな意見がインターネットを通じて寄せられるようになり、筆者は望外の喜びとしている。

  これは約6000字に及ぶ長文でも書き切れない大テーマなので、もう1回取り上げて自分の考えを述べたい。

  英才教育は中国にとってその歴史、文化、社会システム、そして中国人の性格などから見て、非常に適しているものである。
 逆に、日本人の遺伝子にぴったりの教育はむしろ底上げ教育である。
 そのため、底上げ教育は現在中国にとっても極めて必要なものになったとはいえ、中国人の性格や中国の社会にそぐわないので絶対できない。
 また、英才教育は日本人の遺伝子と相反するもので、無理矢理に導入しようとすれば、必ず拒絶反応を起こし失敗に終わり、国をダメにする。

  以上は前回のコラムでもっとも言いたかったことだ。

  では、なぜ日本は英才教育の導入といった愚行をぜひやめてほしいと言うのか、もう一つの理由は実は超高齢社会にある。

  周知のとおり、日本の高齢化率はすでに23%を超え、世界一の超高齢化を記録している。
 日本は後2、3年経つと、国民4人に1人が高齢者というようなとんでもない国になる。
 しかも、そのスピードも世界一で、今世紀中頃までに、高齢者は国民3人に1人、さらに2人に1人という計算で推移していく。
 まさに恐ろしい暗黒の闇への突進というべきだ。
 この流れは、すでに広く浸透している
 「結婚は個人の自由だ」
 「出産は自分の意思次第だ」
といった価値観が変わらない限り、誰も止められないだろう。

  近年、中国の高齢化は世界一で急速に進んでいるという研究者が大勢いる。
 それは大間違いである。
 中国も確かに2000年頃から高齢化社会に突入したものの、高齢化のスピードや高齢化率はまだ低く、日本とは比べものにならない。
 高齢化率はわずか9%程度で、日本から見ると、まだまだ若い社会だ。
 しかも、中国の高齢化は近代化と都市化の必然的な結果ではなくて、計画出産(「一人っ子」)政策の強行がもたらしたものである。
 特に農村住民は長年にわたって「ゲリラ戦術」で政府と対抗しており、一人っ子の世帯がほとんど見えないどころか、子ども2人か3人以上をもつ若い夫婦はごく一般的である。
 政府がいったん計画出産政策を緩めると、毛沢東時代のような産みっぱなしの事態に逆戻りしなくても、総人口数のリバウンドは必ず起きると断言できる。

  これも底上げ教育よりも、英才教育を行わざるえない中国の見逃せない事情である。

  そんな中国とまったく異なる状況に置かれているのが日本だ。
 子どもの数が急速に減っている日本では、
 底上げ教育を徹底し、一人でも多くの子どもに平均以上の教育を施す他に方法はない。
 英才教育は確かに響きがいい、恰好がいい。
 しかし、英才教育は同時に多くの子どもを無情に切り捨てていくことになる。
 これほど進んでいる少子社会で、教育を受ける権利、人間の基本的人権の保障などとまで言わなくても、子どもは一人一人、すべて貴重な労働力であり、納税者である。誰を切り捨てても大きな浪費である。

  そして超高齢社会の日本にとっていったいどんな人材が求められているのか
 この問いにわれわれは答えなければならない。
 この問題に真剣に向き合わない限り、教育のあり方を語ることができないと思う。

 筆者もここで答えてみる。

  超高齢社会になった現在の日本、また、高齢化がさらに進んでいく将来の日本にとって、もっとも重要なことは、
 限られた貴重な教育資源がすべての子どもに公平に行き渡るようにし、できるだけすべての子どもを立派な人材に育てる
ということではないだろうか。

  ここで言っている「立派な人材」とは、勉強ばかりで、他人と競争して勝ち抜いた、頭の切れるエリートではない。
 むしろ、勉強はほどほどにして、遊びも、スポーツも、ゲームも、部活も、ボランティアも、
 様々な体験や経験を積んだ人間性の豊かな人を指す。
 彼ら(彼女たち)は平均以上の教育(高等学校以上)を受けて、各分野のエキスパートを目指していくのだ。

  このなかでは、エリートも当然生まれてくる。
 ただし、超高齢社会においてエリートは逆に役立てるところが少ないではないかと思われる。
 なぜなら、超高齢社会を支えるもっとも重要な分野は医療、保健、福祉などを代表とするいわゆる第三次産業である。
 これらの産業分野ではエリートが非エリートを支配するような構造が成り立たず
むしろ一定の専門知識を身に付けた専門職の協働・協力が大いに求められる。
 超高齢社会で人間性豊かな人材が必要不可欠となる理由はここにもある。
 勉強や競争しか知らず、自己中心的で、他人と協力できないような者はどんなに頭がよくても、あまり役に立たないといったら言い過ぎだろうか。

  中国と比べて日本の子どもはよほど健全だと前回は述べたが、これは決して褒めすぎだとか、日本贔屓だとかいうことではない。
 近年、学力の低下を危惧する声があちこちから上がっている。
 大学教育の現場でも似たような状況が広がっている。
 しかし、筆者はむしろ
 超高齢者の担い手をどう養成するかという視点に立って教育のあり方
を見つめ直そうとしている。

  日本の昔(特に高度経済成長期)、あるいは海外の一部の国と比べ、今の子どもの学力が低下しているといえるかもしれない。
 しかし、よく考えてみると、これは少子化と切っても切れない関係にあって、必ずしも教育だけで解決できる問題ではない。
 少子化の影響で、入学の競争がかなり緩和され、10年前ならなかなか入れない学校はかなりハードルが下がり入りやすくなった。
 また、子どもたちに向けた社会全体の眼差しも相当変わってきている。

  そんななか、筆者が一番心配しているのは、子どもたちの人間性の涵養に直接影響する家庭環境や学校環境の変化である。
 核家族化の進行によって子どもは遊び相手がいない、兄弟や祖父母もいない。学校の教員も、団塊世帯の定年退職により若い人が教育の現場に入り子どもの相手になる、そんな大きな様変わりが起きつつある。

  日本は日本独自の社会問題を抱えており、今や将来、どんな人を育てたいのか、育てなければならないのか、しっかり現状を踏まえ、未来を見据えて教育のあり方をデザインする必要がある。
 その際、子どもの学力のみを海外と比較するのではなくて、子どもの成長過程、子どもを取り巻く社会環境に立脚した「人材像」を編み出していくべきではないだろうか。

 (執筆者:王文亮 金城学院大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)




サーチナニュース 【コラム】 2012/02/23(木) 12:44
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0223&f=column_0223_009.shtml

ここが違う日本と中国(13)―
よく勉強しているのは誰?

  「中国の子どもはよく勉強するね。日本の子どもはもうちょっと頑張ってほしいな」
  これも最近よく耳にする話である。

  中国の子どもだとか、日本の子どもだとかといっても、必ずしもそれぞれひとくくりで見ることができない。
 第11回のコラムで紹介した上海の子どもたちは中国の子どものなかでもっとも勉強しているといえるし、兄弟の世話や、家事、農作業の手伝いをさせられ、勉強に専念できない、あるいは学校を中退せざるをえないような子も農村には少なくない。
 また、日本でも部活や遊びをほとんどせず、毎日学校―塾―家を順繰りにするだけの子がいる。

  ただし、そうはいっても、全体的に見て、中国の子どもが日本の子どもより勉強しているのは事実だと筆者も認めている。

  もちろん、話はここで終わるわけにはいかない。
 もう少し広く、深く観察しないと、一番大切なところを見落としてしまう恐れがある。
 子どもに限って見れば、日本は中国に引けを取っているといえるかもしれないが、国民全体でいうと、むしろ日本人の圧勝である。

  ここにも、勉強という営みに対する認識の違いが横たわっている。

  中国では基本的に勉強というのが子どもの義務として強く意識されている。
 勉強はいい学校に入り、いい仕事に就き、人生のいいスタートを切るための欠かせない手段だということである。
 だから、子どもを勉強させることは親の責任と位置づけられており、特に都市部では子どもの勉強がまるで家庭生活の最優先事項のように広く考えられている。
 「中国人は教育熱心だ」
という言い伝えはまさにこのようなところから生じてきたのだ。

  しかし、大人の世界になると、勉強の意義や捉え方ががらりと変わってしまう。
 ずばり言うが、教育熱心な親が大勢いるけれど、勉強熱心な大人は必ずしも比例的に多いというわけではない。
 子どもに対していつも「勉強しろ」と命令する親自身はほとんど勉強しない、そんなケースは決して稀なことではない。

  「社会でも勉強しなければついていけないじゃないか」と思うのが日本人の常識である。
 しかし、これは中国人にとって必ずしも常識ではなく、むしろ世間知らずの陳腐なセリフと嘲笑される。
 日本では、「よく勉強している」というのが子どもに対してだけでなく、大人の世界でもプラス評価であり、人を褒める言葉になる。
 一方の中国では、大人への賛辞として使われないようなケースが少なくない。
 下手すると、
 「勉強しか知らない、人間関係が希薄、出世術も分からない」
ようなニュアンスで理解されてしまうからだ。

 要するに、大人の世界では、勉強や知識は確かに生きるうえでの重要な条件ではあるが、出世や、肝心な場面での勝負を決定するための欠かせない武器ではない。
 じゃあ、それは一体何なんだろうかと聞いたら、恐らく圧倒的多数の中国人は
 「人間関係だ」
 「コネだ」

と答えることになるだろう。

  そうだ。
 超コネ社会の中国では、勉強や知識の位置づけが意外と低く、その実際の機能も非常に限られている。

  先日、QQで数年前に日本から帰国した元の中国人留学生と久しぶりに世間話をした。
 彼女は東京のある名門大学で博士号を取得した後、中国のある大学に就職し、そこの教員になった。

  「もう准教授になりましたか」と尋ねたら、彼女は急に感情が高ぶり、
 「一所懸命に働いているのに、まだ専任講師だよ。
 私は学長や学部長と緊密な関係を作りたくないから、なかなか昇格させてもらえない。
 本当に損したわ」
と腹を立てた。

  今の中国では腐敗と汚職が蔓延っており、学問の殿堂とされてきた大学もひどく蝕まれている。
 大学の責任者や管理層がキャンパス工事のなかで不正に手を染めたり、収賄などで逮捕されたりするようなことは日常茶飯だ。
 また、教員人事は研究業績を重視するよりも、上層部(書記、学長や学部長)との私的関係によるところが大きい。

  大学ですら、こんな状態に陥ってしまったから、ましてや一般社会、特に政界では、どんなに勉強して専門的な能力を高めても、
 コネがなければ、出世することが出来ない。

  だから、子どもとは対照的に、大人はそれほど勉強しないのだ。
 中国の空港、駅、電車の中を覗いてもわかるように、そこで本や雑誌を読んだりする人はほとんどいない。
 待ち時間、電車に乗る時間がそんなに長いのに、本や雑誌に頼らなかったらどうするんだろうか。
 でも、絶対多数の人はぼっとしているか、携帯に夢中、連れ合いと世間話する。
 あるいは、向日葵やカボチャの種などを口にしながら過ごす。
 やはり本や雑誌で暇をつぶすような習慣がないからだ。

  筆者が中国に帰る度にいつも気になることは麻雀(日本ではマージャン、中国ではスズメ)の隆盛である。
 中国人はどうしてこんなに麻雀が好きなのかと日本人から聞かれたことがある。
 正直、これは一言で答えられる問題ではない。
 ただ、一点だけはっきり言えることがある。
 麻雀は中国では昔からギャンブルの王者であり、いまもカネをかけてやるのが流儀である。

  中国人はもともとギャンブルが大好きで、毛沢東時代には百パーセントに抹消されていたが、改革開放後は完全復活。
 現在、いたるところで麻雀に興ずる人々の姿が見られる。
 住宅地に入ると、家々からその音が聞こえてくるし、「まるで奇妙な合奏のようだね」とある知人が形容した。
 雨のない日には、道路の脇や、路地でもそのような景色が広がっている。

  そして麻雀三昧の国情を表現するに、
 「10億人民9億賭」
という言葉が1990年代頃に生まれた。
 「賭」とは賭博で、麻雀を指す。
 10億の国民中、9億人が麻雀をやっているという意味になる。
 10億と9億はいずれも概数で、麻雀人口がいかに多いかをやや大げさに言っているのだ。

  ちなみに、1980年代当時の世相を現わす言葉には
 「10億人民9億商」
というのがあった。
 ここの「商」とは商売のこと、社会主義計画経済の方向転換をいち早く察知した者が商売に身を投じた。
 中には、政府機関の職員、官僚、大学の教師も多くいた。
 公務員や教師の仕事と身分を辞めてのことだから、相当勇気が必要、もちろん今は考えられない。

  麻雀は非生産的な行為である。
 カネが参加者の間で回り、勝者と敗者がいて、勝者がどんなに儲かっても、カネの総額が増えるわけではない。
 しかも、社会の気風を乱し、犯罪の温床となり、日常生活や家庭生活を破壊する危険性が高い。
 という理由で、麻雀にカネをかけてはならないというはずだ。
 ところが、一般庶民は一切構わず普通に楽しんでいるし、麻雀三昧の生活を送っている公務員も少なくない。

  公務員も人間だから、麻雀をやってもよかろう。
 しかし、問題になっているのは職場で勤務時間中の麻雀だ。

  筆者は、昨年12月に出版した『「仮面の大国」中国の真実』(PHP研究所)のなかで、
 「公務員、これほど楽な職業はない」
という一節を設けて、こう書いてある。
  「中国の公務員がこれほど高い人気を誇るのには訳がある。
 安定していること、給料と福利厚生がよいこと、権力の中枢に近いこと、灰色収入が多いこと。
 さらに、仕事がすべての職業・職種のなかもっとも楽であることだ。
  公務員の職場を見ればよくわかる。
 お茶を飲み、新聞を読み、世間話をしている人はいいほうだ。
 麻雀、トランプ、将棋、パソコンゲームなどに興じる人もいれば、抜け出して買い物、食事、散歩、賭博(ギャンブル)などをする人もいる。

  こういった公務員のあり様が近年ようやく問題視され、庶民の厳しい視線にさらされるようになった。マスコミからも批判的な記事が続々と登場する。」(288頁)

  しかし、国民からの批判や、マスコミの曝露にもかかわらず、職場での麻雀は一向に減らないようだ。

  今月2日付の「羊城晩報」も深セン市の関連事件を報じた。
 それによると、同市市場監督管理局のある所長が旧正月明けの初仕事で、なんと部下たちを会議室に集めて麻雀に興じていた。
 この所長がただちに停職処分を受けたが、同様のことはあちこちで起きているから、取り締まり切れるとは誰も期待していない。

  そんな暇があったら勉強すればいいのにと思われるが、官僚は読書時間が少ないということも最近結構話題になっている。
 共産党中央はしょっちゅう全国の幹部に向けて「学習にいっそう励もう」と指令するものの、それに耳を傾ける人はどのくらいいるのか、知る由もない。

  ここまで中国のことを長々と書いたが、少し日本に目を転じよう。

  勉強を一生涯のことと考えている日本人は非常に多く、日本では生涯学習が非常に盛んである。
 知人の中には、70代、80代になっても外国語の勉強に打ち込んでいる人がいる。
 それは趣味や教養のためやっている部分が大きいが、それだけではない。
 例えば、ボランティア活動でお年寄りが大きな割合を果たしている。
 中では、海外へ行ってボランティア活動に従事している高齢者も大勢いる。
 中国で日本語教育に携わる高齢の日本人ボランティアがいることは広く知られている。

  日本の老人クラブや老年大学も高齢者の学習の場である。
 中国でも老年大学が多く設立されているが、基本的に都市部の高齢者(特に定年退職した公務員、幹部、教師が圧倒的に多い)が入学しており、農村の高齢者は老年大学とはほとんど無縁である。

  そして少子化の影響で学生の募集に困っている日本の大学は社会人入学に力を入れている。
 いまどこの大学も社会人を募集しており、社会人がどんどん大学に入るようになった。
 特に大学院では、社会人学生がすでに欠かせない存在となっている。
 こういった状況はなにより日本人の勉強好きを物語っている。

  筆者は来日後非常に感心しているのが、勉強会や「○○教室」の多さである。
 週末になると、学会、研究会、勉強会、教室などはあちこちで開かれる。
 特に駅周辺の建物には、様々な会場が設けられている。
 それを目の当たりにした筆者はいつも驚き、感動すら覚える。
 こんな様子は中国ではあまり見られない。

  中国では基本的に、教室は子ども、学会や研究会は学者・研究者が入るところだと考えられている。
 しかし、日本はそうではない。
 教室というのは大人が入って勉強するところでもあるのだ。
 また、学会に入会しているのは学者・研究者だけではなく、関連領域の人も幅広く含まれる。
 例えば、現場で仕事している人、行政の人、新聞や出版関係の人、高校の教員も学会の会員になるのだ。
 また、研究発表も学者・研究者だけでなく、現場の人も積極的に行う。
 筆者が所属する日本社会福祉学会は会員数5000名以上を擁しており、驚くべきことに、その多くが学者・研究者ではなく現場担当者である。

  一方、中国の学会はほとんどと言っていいほど学者・研究者の世界であって、他の職業や一般の人びとに大変遠い存在である。

(執筆者:王文亮 金城学院大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)










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